終活コラム

vol.81

自分のためにも家族のためにも終活をする

自分の終わりを意識するというのは決して気持ちの良いものではありません。 でも、終活という言葉は、お葬式や追悼という言葉のように、単純に死を連想させる言葉とは少し違う意味合いを持っています。 そして終活をしている人としていない人とは、人生の厚みも、そして自分がこの世での生を終えたあとに残された家族の受け止め方も大きく違ってくるのです。 それで誰にとっても意味ある終活は大切だということをまずは念頭において欲しいと思います。 ただ、終活というのは何かのレシピのように一つの決まった方法があるわけではありません。 終活をする人の年齢とかその置かれている立場によって終活の方法も変わります。

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例えば終活の代表的な例は、経済ジャーナリストの金子哲雄さんの終活は多くの人の記憶に深く刻み込まれていると思います。 彼の場合は不治の病になり、自分の余命を知ったとき、最後まで自分の人生を悔いなく過ごす為に、その人生と向き合い、自分の葬儀の準備までされたのです。 残された家族は辛いです。

しかし多くの遺族が遭遇するような「(例えば)夫は何を望んでいたのだろう、どうしてあげたらよかったのだろう、これで本当に良かったのだろうか」というような、家族を失った悲しみの上に、後悔や不安にも似た気持ちに苛まされるというそのような辛さはかなり【軽減】されるでしょう。 (どんなに周到な準備、パーフェクトに思えるような終活をしたとしても、それでも家族を失う痛みは大きなものであり、遺族が納得できるということは無いのです) ですから、治ることのない病に冒されてしまった場合、または死を意識した年齢になってしまった場合、最期までにやりたい事を考え精査し、出来る限りのことをすること。

さらに葬儀に関する希望をすべて書き出し、出来るなら家族や配偶者には伝えたいことを、言葉か書面で伝えること。 このような終活が理想です。

しかし、このコラムを読んでいる人すべてがこのような究極的な状況に立たされているわけではありません。 病気とは無縁の人、まだまだ若い人、そのような人は終活をしなくても良い、終活不要という意味でしょうか。 いいえ、そうではありません。 すべての人に、何が起こるかはわからない、それが私たちが生きるこの世界の常なのです。

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東日本大震災のときに、多くの方が、予期せぬときにその人生の終わりが突然にやってきました。 これもまた哀しいことですが事実なのです。 それで、すべての人が、自分の葬儀についての意思や希望、財産や不動産がある人であれば相続に関する意思表示、そして人生の節目節目に自分がどのように思っているのか、例えば家族について、また仕事について、あるいは生活について、わずかでもコメントを残しておくのは良いことです。 万が一のことがあればそれが家族にとっても支えになりますし、何も無くても自分自身が客観的に自分の人生や家族のことを振り返ることが出来るからです。 書きかたとしては終活を意識したものにするべきです。

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若い人であれば「未来ノート」のように、こんな自分になりたい、こんな夢を実現させたいというのは別のものに書いてください。 あくまで終活を意識したものは、そのときまでの人生に対する前向きな評価をすることがポイントです。 「~でよかった」「~で幸せだった」という観点で書き残すものがあれば、自分自身もある程度の自己肯定とそれによる幸せを感じることが出来ますし、幸せな人生を送ってきたという確認が出来るということは人生を豊かにするのです。 最期に、付加的なこととして(縁起でもないことは言い難い)万が一のことがあった場合には、これらが家族を癒し支えるものとなることを覚えておきましょう。

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