浄土真宗本願寺派
福泉寺
ふくせんじ
福泉寺の歴史
もっとも古い史料では菅茶山(かんちゃざん)編纂の『福山志料(ふくやましりょう)』(1809年(文化6年))に「日明山(ひめいざん)と号す。開基了心。
もと伊豆の人、兒玉修理太夫政近(こだましゅりだいふまさちか)という。備後国中条に来て出家。第三世観心(かんしん)の代になって 此(ここ(下山守))に移る」とあります。
「修理太夫」というのは官職(国家公務員)です。備後に来て後に出家をしたのには、色々な事情があったのでしょう。
いずれにしても、20代以上に亘りそれぞれの時代の人々との交流を経て今日まで堂宇伽藍(どううがらん)を護持してきました。
また、1925(大正14)年発刊の「蘆品郡志(あしなぐんし)」には「時の住職濯征(たくしょう)が80歳の時に隠棲し、その時建てたのが『宜山亭(ぎざんてい(宜山館))』である。
後に山口出身の圓識(えんしき)上人が福泉寺に20年寓居し、ここで菅茶山や西山拙斎(にしやませっさい)と交流を深めた」とあります。(当時の武倍山(むべやま)に対し、この「宜山」という字をあて、現在も学区名で用いられています。)
近年では、
「二十四世海純(かいじゅん)、笠岡浄心寺津田氏より入寺。 それまでは韓国人青年安重根(アンジュングン) (伊藤博文を銃殺)の教誨師も務めた」
「二十五世晃信(こうしん)、能美島久保家より在家入寺。 真宗学寮(浄土真宗の専門私塾)創設者の高松悟峯(たかまつごほう)和上の化導によって研鑽を重ねた」
というのが、口伝えのあらましであります。
交通アクセス
バス
福山-近田東-中国中央病院[中国バス]『尾部バス停』より徒歩3分
お車でお越しのお客様
JR福塩線『万能倉駅』より11分
山陽自動車道「福山SAスマートIC」より15分