終活コラム
vol.59
日本人の心
「合理的」に考える現代の日本人
最近、合理的な考え方をする日本人が多い。 それは高度経済成長を経て、日本が非常に便利な暮らしができる国になったからだろう。 しかし、それに伴いコミュニケーションが以前と比べ不足し、人と人との関係性が薄れてきているのも事実である。 お墓に携わる仕事をしていると、現在「価格を抑えた、継承を必要としないお墓」が主流となっていることが分かる。 以前のような墓石だけで、100万円以上かかる従来の家墓は誰も買わなくなってきているのだ。 それに従来の家墓は代々継承することが必要で、核家族化や少子化が進んだ現代社会ではニーズが合わなくなってきている。 葬儀にしても「家族葬」や「直葬」といって、人数を限って行う葬儀やお通夜をしない葬儀などが現在、都内では従来の葬儀(一般葬)よりも多い割合で行われている。 確かに従来のお墓や葬儀というのはとにかく費用がかかり、時間と手間がかかる。 そのようなお墓や葬儀など仏事に関わることは大抵、「合理的」とはいえない。 合理的に行うのであれば、 「葬儀は1日、費用を抑えて手間も省きたい」 「お墓も費用を抑えて、家から近い所にお墓を持ちたい」 それが妥当ではないのか。 事実、今のお墓事情、葬儀事情はそのように合理化されたスタイルが主流になっているし、仏事に関わること以外でも生活に関わる全てのことに対し、合理化が進んでいっているのではないか。 しかし、それゆえに今「日本人の心が失われている」とも言える。 例えば以前コラムでも書いたことがあるのだが、日本の葬儀は世界と比べダントツに費用をかけている。 葬儀にかける平均費用を比較すると、アメリカの5倍、イギリスの20倍となっている。 もちろん、そこには葬儀社のビジネス的な思惑により価格が高騰していったのも事実なのだが、それにしてもあまりに高額な費用を以前の日本人は葬儀にかけていた。 金額も相当なものだが、またそれにかかる時間や手間も考えると非常に大掛かりだ。 お墓も同様で高額な費用と、それにかかる建設には時間がそれなりにかかる。 そのような費用と時間をかけて行う供養のやり方を現代社会を生きる日本人は果たして「合理的な考えではない」と一蹴することができるのだろうか。
「ご縁」という言葉に隠された日本の心
「ご縁」を大切に・・・・。 という言葉を日本人なら一度は耳にしたことがあるだろう。 しかし、その言葉を英語に訳して伝えるとなかなか上手くは伝わらない。 ご縁という意味を辞書で調べてみると「巡り合わせ」だったり、「出会い」「人と人とが出会う機会・関係」などを意味することがわかる。 であれば、英語に訳せば「chance」「meeting」など言葉の表面だけを抜き取ればそれなりに合う言葉は出てくるのだが・・・ 果たして、日本人が使う「ご縁」とはそのような表面的な意味だけで使っているのか・・・? 実は日本人が使う「ご縁」という言葉は仏教用語である。 「物事はすべて繋がって成り立っている」という考え方が根底にある教えである。 これは「縁起(えんぎ)」という仏教の教えだ。 縁起とは「因縁生起(いんねんしょうき)」という言葉を略したもの。 「物事にはすべてにおいて原因がある。今ある結果はそれにより生じたものだ」と読み解く。 一見、たまたま起こったように見えた出来事も実はちゃんとした理由があるのではないか・・・。 そのような教えを日本人は常に考えてきた。 「悪いことをするとバチが当たるよ」というのもそうだし、「善い行いすれば、それが必ず形となって返ってくる」とも言われてきた。 そうやって日本人は、今ある出来事をそのまま考えるのではなく、その事象の背景にあるものに目を向けて読み解くことを大切にしてきた。 だからこそ、「ご縁」という言葉を大切にしてきたのだろう。 「人と出会う」 そのようなたった1つのことにしても、たくさんの事象が関係しあって成り立っているのだ。 逆に言えば、無数の事象が一つでも欠けていれば、その出会いはまた違ったものになっていたかもしれないし、その出会い自体なかったのかもしれない。 例えば、私の従兄弟は独身の時、たまたま空きがでた合コンに「穴埋め」として呼ばれ、その先で出会った人と結婚し、今やそこで家庭を持ち、2児のパパとなっている。 そのような奇跡としか言えないような、まさに不可思議としか言えないものも日本人は「ご縁」という言葉にして表現した。 また、そんな明らかに奇跡といったことでなくても、以前の日本人は普段、当然のように人と会い、ご飯を食べ生活をしていること自体が実はどれ一つ取っても不可思議なことであり、「有り難い(ありがたい)」と感謝をしていた。 だからこそ縁がある人が亡くなった時は、故人との出会いや思い出に感謝をし、手間をかけ、時間をかけ、お金をかけ盛大にやったのではないだろうか。
これから大切なこと
というように考えると、「葬儀やお墓選びはお金や手間がかかるもの。だから合理的に簡素化してやろう」という風潮が、OKとされる現在の日本が今までの日本のスタイルと離れているような気がして少し寂しさを覚える。 もちろん「合理的」に考えること自体は悪いことではない。 それにより、日本の社会は非常に進化をしてきたのは事実である。 ただ、そのような社会にあり、モノに恵まれた国になりきったことで、ご縁を大切にしてきた日本人の心が失われつつもある。 だからこそ、これからの葬儀やお墓選びであれ、故人との縁を考えた時に「時間やお金や手間」を惜しんで、簡素化したものになっていく今の流れを一度考えたい。 そういった目先のものだけで考えない日本人の心をもっと大切に考えるべきだと思う。