浄土真宗本願寺派
浄福寺
じょうふくじ
サブスクのお墓
浄福寺の歴史
当山の開基善順の俗名は井上忠長と称し、かつては鎌倉の扇ヶ谷に居住していた武将でした。忠長は、柿崎で武名をかくして、出身地の名をとって扇谷(扇屋)と名乗っておりました。
承元元年(1207)念仏禁止の難にまきこまれた親鸞聖人は、建暦元年(1211)柿崎で忠長と出会いました。そして聖人のご教化により忠長の心に仏さまの信心が目覚めたのでした。
聖人も深くこれをお喜びになり「南無不可思議光如来」の九字の御名号を忠長にお与えになり、法名を釈善順と授け、お弟子とされました。
聖人は「柿崎にしぶしぶ宿をとりけるに主の心熟しなりけり」と詠まれ、これに対して忠長も「かど通る法師に宿をかしければ書きくれたりや九字の名号」とご返歌申し上げました。
翌朝、聖人は、御名号を背負って共に柿崎川を渡った善順に「おん身は私の供をするにおよばぬ。これから柿崎に帰って夫婦もろともに弥陀の本願を弘通し、北国同行の先達となってこそ仏恩報謝の道である」とお諭しになられ、国府へと向かわれました。
善順は、涙ながらに聖人のお姿を拝してお別れ申し上げ、再び柿崎に立ち戻りました。このことから後にこの御名号を「川越えの御名号」と申しようになりました。
以来善順は御名号を安置し奉り、ただひとすじに聖人の御教えの先達となり、今日にいたったのであります。
交通アクセス
最寄駅
JR信越本線『柿崎駅』より徒歩10分
バス
頸城バス『柿崎バスターミナルバス停』より徒歩7分
お車でお越しのお客様
北陸自動車道『柿崎IC出口』より5分