法正寺
ほうしょうじ
- 宗派
- 浄土真宗本願寺派
- 所在地
- 大阪府大阪市東淀川区豊里6-7-18
法正寺小史
宗派と寺号
宗派は浄土真宗本願寺派に属し、山号を日下山(にっかさん)、寺号を法正寺といいます。江戸時代には宝正寺と書いたこともありました。
寺の開創と開祖
当寺はもと西成郡上中島三番(にしなりぐんかみなかじまさんば)村にありました。それが明治三十二、三年の淀川改修で、三番村とともに現在の地に移転してきました。元の場所は、今では淀川の川床になっています。旧三番村は昔は草苅荘(くさかりのしょう)と呼び、聖徳太子が来られた時ここで御馬の草を苅ったので名付けられたと言われ、またその時式三番叟(しきさんばそう)の舞楽を演じたのが三番村の名の起こりと伝えられています。
寺地の移り変わり
当寺の始まりは、今から四百余年前の元亀(げんき)四年の事です。開祖は願念法師で、この方は俗名を楠惣左衛門(くすのきそうざえもん)と申し、北伊勢の城で織田信長と戦いましたがついに敗れ、今度は大阪の石山本願寺(今の大阪城の付近であった)に味方して、前後十一年間に及ぶ石山合戦(本願寺と織田信長との戦)に、みずからも頭に鉄砲傷を受けるほど奮戦しました。やがて顕如上人(けんにょしょうにん)の御弟子となって剃髪(ていはつ)し、願念という法名を賜り、元亀四年に上人の御裏書(おうらがき)のある大品御本尊(だいぼんごほんぞん)を拝領しました。そして楠氏にゆかりの深い三番村に移住し、一寺を建立しました。これが当寺の始まりです。
その後も戦乱は止まず、願念は城中に兵糧(ひょうろう)を贈るなど本願寺方に力を尽くしました。その功によって、さらに顕如上人から「帰命尽十方無碍光如来(きめようじんじつぼうむげにょらい)」と記した、上人御自筆の名号(みょうごう)を頂きました。この十字のお名号は、いま開基御本尊として寺宝になっています。
歴代の住職と寺風
願念法師のあとを受けて第二世願秀、第三世願誓、第四世宗圓、第五世願智、第六世教誓(宗念)、第七世宗圓、第八世知眼(知圓)、第九世知禮、第十世願海、第十一世僧了、代十二世廓了、第十三世宏猷と続き、現在職宏史が第十四世を継いでおります。
第七世の如実院宗圓は、先住のあとを受けて大いに寺観の整備に力を注ぎ、当寺中興とたたえられています。また第九世如実院智禮は、大阪堂島にあった正念寺の復興に努力し、荒廃していた同寺を隆盛に導きました。第十世の如覚院願海は宗学の他に茶、華道をよくし、茶や花を通じて多くの門信徒の方々から親しまれました。
第十一世の如説院僧了は学問好きで、特に漢詩や文章に秀でていました。十九歳の時にはるばる九州日田の咸宜園(かんぎえん)に入塾し、広瀬淡窓(たんそう)先生について漢詩文を学んでいます。幕末維新の際には法皇に従い、帯刀姿で御所の警衛に参加するという事もありました。やがて明治の世になると、新しい教育委制度の下に寺を開放して四区七番小学校とし、教導職として地元の子弟の教育に勤めました。さかのぼれば、豊里小学校のルーツの一つにあたります。
第十二世大乗院廓了も、幼児から父僧了の教えを受け、新学制の下に教育に力を注ぎました。今境内に建っている「上田先生の碑」は、当時の教え子の方たちが遺徳を偲んで健碑されたものです。第十三世大尽院宏猷もその生涯を教育に捧げ、更に晩年は更生保護、児童福祉に力を尽くしました。
このように歴代の住職は単に宗教活動だけでなく、広く教育や福祉などにお役に立つよう念願し活動してまいりました。これはひとえに当寺の遺訓によるもので、いわば寺風とも申せましょう。これを受けて現住職も、門信徒の皆様や世の人々のために、今後尚一層精進してゆくことと存じます。皆様方の温かいご批護とご支援をお願い申し上げます。
交通アクセス
電車
阪急京都線「上新庄駅」より徒歩14分
バス
-大阪シティバス「大桐一丁目」バス停より徒歩9分
お車でお越しのお客様
阪神高速12号守口線「城北出口」より約9分